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国際審査委員

コンペティション審査委員長

アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ

アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ

Alejandro González Iñárritu

監督

profile

1963年メキシコ・シティ生まれ。
自らの出身地であるメキシコを「世界最大かつ最も強烈な人類学的実験の場」と呼ぶイニャリトゥは、ジャン・ボードリヤール(ポストモダンの代表的な思想家)から学んだ「未来における最初の原始社会」の考え方に興味をそそられ、『アモーレス・ペロス』(00)の撮影後、アメリカへ移住した。その後、モロッコ、日本、今はスペインに熱中している。そして「私は父であるのか、それとも息子であるのか」というひとつの課題について、自らに問いただし映画を撮り続けている。フィクションがいつどのようにして現実に取って代わるのか、まだ読み解くことができないと認めながらもそれを追求し続けている。
主な監督作品として『アモーレス・ペロス』(00)『21グラム』(03)『バベル』(06)"Biutiful"(09)。
イニャリトゥ監督作品は、オスカーに10回ノミネートされている。
2006年の第59回カンヌ国際映画祭では、監督賞を受賞した。

第22回東京国際映画祭へのメッセージ

地球上の各地の映画界から、新たなそしてエキサイティングな産声があがっています。
我々の発想を変える人たちも、これまでも映画によって我々のビジョンを豊かにしてくれた人たちも、今日の文化に時折見られる我々を完全に取り乱させるものに抵抗するための場を必要としています。TIFFは、何年も前から世界中の映画製作者が会する重要かつ心温まるフェスティバルです。日本の文化や映画の伝統は、私個人にも影響を与え、また、敬意と感心を抱かせました。第22回東京国際映画祭の審査委員長を務めさせていただけることを名誉に思い、感情の浄化や省察を引き起こす新たな声に出会うことを楽しみにしています。

コンペティション審査委員

原田美枝子

原田美枝子

Mieko Harada

女優

profile

東京都生まれ。1974年の『恋は緑の風の中』で主演デビュー。
76年、増村保造監督『大地の子守歌』、長谷川和彦監督『青春の殺人者』の2作品に主演。弱冠18歳でキネマ旬報主演女優賞、ブルーリボン賞新人賞、報知映画賞、ゴールデン・アロー賞最優秀新人賞をはじめ、9賞を受賞。20代に入ってからは、さらに活躍域を広げ、『トラック野郎・突撃一番星』(78)などの娯楽作から、『あゝ野麦峠』(79)などの文芸作にも出演。同年の『その後の仁義なき戦い』で日本アカデミー賞優秀助演女優賞を受賞。
一方で、製作にも進出し、神代辰巳監督の『ミスター・ミセス・ミス・ロンリー』(80)では、プロデュース・脚本・主演の3役をこなす。
85年、黒澤明監督の『乱』に抜擢。続く深作欣二監督『火宅の人』では、日本アカデミー賞最優秀助演女優賞、報知映画賞助演女優賞を受賞。ベテラン監督の演出のもと、確かな実力を培う。
96年の東陽一監督『絵の中のぼくの村』では、双子の息子を豊かな愛情で育てていく母親を演じ、山路ふみ子女優賞、キネマ旬報主演女優賞、報知映画賞主演女優賞をはじめ、多くの映画賞を受賞。
さらに、98年に主演した『愛を乞うひと』では、激情的な母と心に傷を負う娘の2役を演じ、日本アカデミー賞最優秀主演女優賞、報知映画賞最優秀主演女優賞、キネマ旬報主演女優賞、毎日映画コンクール主演女優賞など、その年の映画賞を席巻する。2001年、これまでの功績により、第55回毎日映画コンクール、田中絹代賞を受賞。その後も、『折り梅』(松井久子監督)『半落ち』(佐々部清監督)『蝉しぐれ』(黒土三男監督)『THE 有頂天ホテル』(三谷幸喜監督)『どろろ』(塩田明彦監督)『60歳のラブレター』(深川栄洋監督)と話題作に出演。舞台、テレビ でも活躍。

第22回東京国際映画祭へのメッセージ

私は、俳優という仕事を通して、実に様々な体験をして、様々なことを学んできました。
俳優業の一番の面白さは、自分以外の人物を、内側から体感できることだと思います。
自分と役柄との間に、なんの違和感も隙間もなく、ぴたりと一致したときには、何かとても強い力が通り抜けたような気がします。
脚本と、スタッフ、俳優が、力を出し切ってひとつにならないと、そんな奇跡のような体験はできません。でも、それができた時の喜びは、一生忘れません。
それは、まっすぐ、観客の心の奥深くにも届きます。
それは、素晴らしい出会いです。
そんな素晴らしい出会いに、出会いたくて、映画は作られ、観客は、映画館に足を運ぶのでしょう。
この東京国際映画祭で審査員を務めさせていただきながら、どんな出会いがあるのかとても楽しみにしています。

イエジー・スコリモフスキ

イエジー・スコリモフスキ

Jerzy Skolimowski

監督 / 俳優

profile

イエジー・スコリモフスキは、ポーランド出身の映画監督、脚本家、画家、そして俳優である。ポーランドの名門ウッチ国立映画大学(レオン・シレル記念国立ウッチ高等映画テレビ演劇学校)を卒業し、ポーランド内外において20作品以上の映画を監督している。
ロマン・ポランスキー監督『水の中のナイフ』(62)の脚本を担当し、その後『身分証明書』(64)、『不戦勝』(65)、『バリエラ』(66)、『手を挙げろ!』(67)など、何本かの半自伝的な作品を手掛けた。ジェレミー・アイアンズ主演の“Moonlighting”(82)は、批評的にも商業的にもスコリモフスキ最大のヒット作である。スコリモフスキが米国で撮った第一作目、ロバート・デュヴァル主演の『ライトシップ』(85)は、ヴェネチア国際映画祭で審査員特別賞を受賞している。カンヌ国際映画祭では、『ザ・シャウト/さまよえる幻響』(78)が審査員特別賞を、そして“Moonlighting”は最優秀脚本賞を受賞。また、『出発』(67)は、ベルリン国際映画祭で金熊賞を受賞している。彼の『アンナと過ごした4日間』は、第21回東京国際映画祭で審査員特別賞を受賞した。
スコリモフスキは、現在米カリフォルニア州マリブとポーランドのワルシャワにある自宅を行き来している。

第22回東京国際映画祭へのメッセージ

日本とその文化は、私にとって最も純粋なインスピレーションの源です。映画監督として、黒澤明さんを敬服してきました。
そして画家としては、日本の書人や能書家から、とりわけ18世紀(江戸時代後期)の慈雲飲光(ジウン オンコウ)から多大な影響を受けています。しかし、感銘を受けているのは古典ばかりではありません。初めて日本を訪れた時のことですが、時差ボケで寝付けず、夜明けまで東京の街を歩き回ったことがあります。何の特徴もない人のいない通りだったのですが、そこに並ぶ数々の広告、そして店舗や公共の看板がとてつもない力で私の視線を引き付けました。あの夜の経験は、私のその後の絵画作品に影響を与えています。私は、日本を訪れる機会を、特に東京国際映画祭については、楽しみでなりません。

キャロリーヌ・シャンプティエ

キャロリーヌ・シャンプティエ

Caroline Champetier

撮影監督

profile

キャロリーヌ・シャンプティエは1980年代、劇場用映画の撮影監督となった女性の第一世代のひとりである。フランスで最も権威ある映画学校イデック(現フェミス)を優秀な成績で卒業。その後の9年間、フランスの偉大な撮影監督ウィリアム・ルプシャンスキーの下、名だたる監督たちの撮影に携わる。
1985年、ジャン=リュック・ゴダールに「映画撮影を少しは知っていても、それほど多くは知らない人を探している」と声をかけられ、2年間ゴダールの撮影監督を務める。その間『映画というささやかな商売の栄華と衰退』(86)『右側に気をつけろ』(87)『ゴダールのリア王』(87)『言葉の力』(88)『ゴダールの映画史』を撮影する。その後、彼女は再びゴダールと組んで『ゴダールの決別』(93)などを撮影する。
そのほかにも、ジャック・ドワイヨン、フィリップ・ガレル、ブノワ・ジャコー、アンドレ・テシネ、ジャック・リヴェットなど数多くの素晴らしいフランス人監督と仕事をする。また多くの若手監督や海外の監督とも組み、日本の諏訪敦彦や河瀬直美の作品も撮影した。また、フェミスで教鞭をとり、1年間「カイエ・デュ・シネマ」誌でコラムを執筆した。
現在、AFC(フランス撮影監督協会)の代表を務めている。ジャック・ドワイヨン監督作品の撮影を終えたばかりで、さらに新作を予定している。

第22回東京国際映画祭へのメッセージ

私と日本との関わりは、いつも映画を通じてのものです。私が映画学校イデックの学生だった頃、映画の先生は、日本の名だたる監督たちをとても愛していました。私は小津安二郎監督や溝口健二監督が描く女性像に深く心を動かされました。
そのあと私は、ジャン=リュック・ゴダール監督の『ゴダールの決別』に撮影監督として携わり、そのことがきっかけで諏訪敦彦監督と知り合う機会を得ました。そして、日本に来て彼の『H story』の仕事をすることになりました。私にとって、日本で撮影をすることは、もう一度生まれ変わって撮影をするような感覚です。照明、インテリア、街の通りなど、目に見えるものすべてがあまりにも違うからです。諏訪監督と私は、話し合うことはあまりせずに、とても密になった状態で仕事をすすめました。日本人のものの考え方について、私は少しずつ理解することができるようになりました。それから河瀨直美監督と長編映画を手がけ、レオス・カラックス監督と一緒に東京を撮影し、それはとても刺激的な仕事となりました。

A・イニャリトゥ監督やJ・スコリモフスキ監督、女優の原田美枝子さんや俳優のユ・ジテさん、そしてシネマテーク・ディレクターの松本正道さんと共に、東京国際映画祭の審査員の一員として10月に東京にいられることは、私にとっての日本をさらに特別なものにしてくれることでしょう。

ユ・ジテ

ユ・ジテ

Yoo Ji Tae

俳優/監督

profile

1976年4月13日ソウルに生まれる。高校生の頃から俳優を夢見て檀国大学演劇映画科へ進学。1998年に映画『バイ・ジュン さらば愛しき人』で俳優デビュー。その後『アタック・ザ・ガスステーション』『リメンバー・ミー』『春の日は過ぎ行く』『Mirror 鏡の中』『オールド・ボーイ』など様々なジャンルの作品に出演し、強烈なイメージを残す。
その後、演出に大きな関心を寄せ、中央大学先端映像大学院へ進学。現在までに4本の短編映画を自ら演出。また、今年初めてテレビドラマに出演もした。
映画俳優、監督など、一つの役割にのみ安住することなく、より多くの人々との交流を通じて多種多様な作品活動を行おうという夢を持った俳優兼監督。

第22回東京国際映画祭へのメッセージ

映画を愛する一人として、どんな映画祭であれ、映画祭を通して世界の多くの人に出会えるのは、いつも楽しいことです。世界を見つめる多様な視点に一度に会えるという大きな機会を映画祭に与えてもらえるからです。世界を見つめる多様な観点を最も多くの人に伝えられる映画。いつもそうであるように、監督や俳優、スタッフを問わず、“私”だけでなく、映画を作るすべての人の考えが込められる映画。そんな映画に魅せられ、映画とともに歩んでいる一人として、グリーンカーペットに立つ多くの人たちと楽しみを分かち合えることを光栄に思います。そして、そこに集う人たちの優しく情熱的な心と考えが、世界の多くの人に伝わることを願っています。

松本正道

松本正道

Masamichi Matsumoto

シネマテーク・ディレクター

profile

1979年よりアテネ・フランセ文化センター(外国語学校が運営しているシネマテーク)のプログラムディレクターとして「古典映画の再評価と現代映画の発見」をテーマに年間200本以上の世界の映画を上映。ダニエル・シュミット、クリス・マルケル、ストローブ=ユイレなどの特集上映を実現している。「<東京の夏>音楽祭1987―アメリカ映画と音楽」「フランス革命200年記念映画祭」(89)「国民文化祭ぐんまinTAKASAKIシンポジウム『21世紀と映画表現の可能性』」(01)コーディネイター。2000年より映画美学校(The Film School of Tokyo)の代表(共同代表)を兼任し、インディペンデントな映画作家のサポートと育成を手がけている。03年にはコミュニティシネマ支援センターの運営委員長に就任。官民が協力して日本の各地で映画上映の場を確保していくシステムの構築をすすめている。ダニエル・シュミット監督『書かれた顔』(94)アソシエイト・プロデューサー。編著に「芸術経営学講座(映像編)」(東海大学出版会)など。92年と93年の東京国際映画祭では、国際映像シンポジウムの総合司会をつとめた。

第22回東京国際映画祭へのメッセージ

私は日頃、シネマテークのディレクターとして、古典映画を再評価することと最先端の現代映画を発見することを試みてきた。また、シネクラブのような小さな映画学校で、インディペンデントな映画作家たちや学生たちと「21世紀における映画とは何か」と映画製作を通じて模索してきた。そして、「コミュニティシネマ」の名の下に、日本や世界の各地で多様な映画が上映され、多くの人がスクリーンで感動を共有する機会がもっと増えることを願ってきた。
私にとって映画とは、複製芸術でありながらも、映画館の暗闇の中でオーラを放つ神々しい存在である。審査員として参加させていただく今回の東京国際映画祭でも、世界中から選び抜かれた現代映画の中から、そのような神々しさに出会えるのではないかと、責任の重さに緊張しながらも、その機会を今から楽しみにしている。

KEIRIN.JP本映画祭は、競輪の補助を受けて開催します。
未来をつくるケイリンの補助事業「RING!RING!プロジェクト」
第21回 東京国際映画祭(2008年度)