2009.10.21
[更新/お知らせ]
コンペティション部門『NYスタテンアイランド物語』ジェームズ・デモナコ監督からのメッセージ
10/21(日)21:20 - (開場21:00)、
10/23(金)10:50 - (開場10:20)
に上映される、コンペティション部門『NYスタテンアイランド物語』のジェームズ・デモナコ監督より、メッセージをいただきました!
チケット:
23日上映分の前売券は電子チケットぴあまたは、ローチケ.comへ!
メッセージ:
スタテンアイランド生まれの者として、幼い頃から私はいつも、自分の故郷の好ましくない評判に気付いていた。馬鹿にされ、さらに言えば、忘れられていることが多く、ほとんどのニューヨーカーに無視されているスタテンアイランドは、その境界線の外側では存在しないも同然なのだ。
スタテンアイランドは、誰に聞いても、ニューヨークの見捨てられた行政区であり、ニューヨークだけでなく、すべてのアメリカン・ライフの目玉的存在で、常に存在感のある不気味な行政区であるマンハッタンのすぐ隣にある、不当な扱いを受けた継子なのだ。
スタテンアイランド生まれの者は誰でも、スタテンアイランドが、心を奪うようなマンハッタンの建物の輪郭の大きな影のなかに存在していると証言することができる。
ここは生きていくにはとても暗く、絶望的な場所になりうる。
『NYスタテンアイランド物語』の監督・脚本家としての私の目的は、このアイランドの本質、あるいは本質だと私が把握していること、つまり無意味さをとらえることだった。突き詰めていくと、その区の無意味さがどのように浸透していき、この無視された場所に暮らす人々にどのように伝わるかだ。この不適切な感覚はスタテンアイランド生まれの者としての自分自身の生き方に伝わり、社会のなかで自分自身をどのように捉えるかに影響したように。
私はこの圧倒的な無意味さの感覚と闘う3人の典型的なスタテンアイランドの男たちを描くことに決めた。ギャング―スタテンアイランドにはニューヨークの他のどの区よりもギャングがたくさんいて、私自身、何人かのスタテンアイランドのギャングのファミリーの隣人として成長した。デリカテッセンで働く者―スタテンアイランドは他のどの区よりもたくさんのデリカテッセンがある。私が若いときに地元のデリで働いていたように。そして、汚水処理タンクの掃除人―アイランドは廃棄物の除去手段として、いまだに汚水処理タンクを利用している唯一の区だ。
スタテンアイランドの男たちとその苦闘についてのこの映画の描写は、結局、スタテンアイランドとその住民に特有なものではなく、ニューヨークの境界を越えて広がり、存在意義、自我、自尊心といったより大きなテーマおよびいかなる社会におけるいかなる個人も彼あるいは彼女の居場所をどのように定義するのか、そして、どれほど途方もなくこれらの定義が変わりうるのかということを反映している。
私の意図は非常にリアルなやりかたで『NYスタテンアイランド物語』を描写することではなく、このユニークな忘れ去られた場所とそこに住む人々を比喩的に定義することだった。その描写はユーモア、誇張されたドラマ、典型的な登場人物、クライム・ノワールの要素を用いて増幅されたものであり、人生の意義と自己をいささか見当違いに捜し求める3人の男たちの絶望的ともいえる苦境を不条理に描こうとしている。この世界で自己と意義を必死に捜し求める私自身がしばしばメロドラマ的で、ユーモラスで犯罪的でかつ、とてもばかげているのと同じように。
『NYスタテンアイランド物語』
監督:ジェームズ・デモナコ
出演:イーサン・ホーク、ヴィンセント・ドノフリオ、シーモア・カッセル
[解説]
NY市南西部に位置するスタテンアイランドを舞台に、ギャングの親分、小心で平凡な青年、そして口のきけない精肉店のオヤジが織り成す、ちょっぴり残酷で皮肉な、でもユーモラスでセンスあふれる、心に響く3つの物語。
[あらすじ]
ブルーカラーのサリー・ヘヴァーソンが、これから生まれてくる子供の将来を考え、チンピラギャングのボス、パーミー・タルゾの金庫を襲う決意を固める。賞金を狙う3人の男たちの人生が悲劇的に交差するなかで、記憶に残る事業を望むタルゾは、スタテンアイランドの森を救うキャンペーンを展開する。一方、聾唖の総菜屋の店員ジャスパー・サビアーノは、ギャングのボスによるいかがわしい行動の犠牲者の遺体処理を行う。
10/23(金)10:50 - (開場10:20)
に上映される、コンペティション部門『NYスタテンアイランド物語』のジェームズ・デモナコ監督より、メッセージをいただきました!
チケット:
23日上映分の前売券は電子チケットぴあまたは、ローチケ.comへ!
メッセージ:
スタテンアイランド生まれの者として、幼い頃から私はいつも、自分の故郷の好ましくない評判に気付いていた。馬鹿にされ、さらに言えば、忘れられていることが多く、ほとんどのニューヨーカーに無視されているスタテンアイランドは、その境界線の外側では存在しないも同然なのだ。
スタテンアイランドは、誰に聞いても、ニューヨークの見捨てられた行政区であり、ニューヨークだけでなく、すべてのアメリカン・ライフの目玉的存在で、常に存在感のある不気味な行政区であるマンハッタンのすぐ隣にある、不当な扱いを受けた継子なのだ。
スタテンアイランド生まれの者は誰でも、スタテンアイランドが、心を奪うようなマンハッタンの建物の輪郭の大きな影のなかに存在していると証言することができる。
ここは生きていくにはとても暗く、絶望的な場所になりうる。
『NYスタテンアイランド物語』の監督・脚本家としての私の目的は、このアイランドの本質、あるいは本質だと私が把握していること、つまり無意味さをとらえることだった。突き詰めていくと、その区の無意味さがどのように浸透していき、この無視された場所に暮らす人々にどのように伝わるかだ。この不適切な感覚はスタテンアイランド生まれの者としての自分自身の生き方に伝わり、社会のなかで自分自身をどのように捉えるかに影響したように。
私はこの圧倒的な無意味さの感覚と闘う3人の典型的なスタテンアイランドの男たちを描くことに決めた。ギャング―スタテンアイランドにはニューヨークの他のどの区よりもギャングがたくさんいて、私自身、何人かのスタテンアイランドのギャングのファミリーの隣人として成長した。デリカテッセンで働く者―スタテンアイランドは他のどの区よりもたくさんのデリカテッセンがある。私が若いときに地元のデリで働いていたように。そして、汚水処理タンクの掃除人―アイランドは廃棄物の除去手段として、いまだに汚水処理タンクを利用している唯一の区だ。
スタテンアイランドの男たちとその苦闘についてのこの映画の描写は、結局、スタテンアイランドとその住民に特有なものではなく、ニューヨークの境界を越えて広がり、存在意義、自我、自尊心といったより大きなテーマおよびいかなる社会におけるいかなる個人も彼あるいは彼女の居場所をどのように定義するのか、そして、どれほど途方もなくこれらの定義が変わりうるのかということを反映している。
私の意図は非常にリアルなやりかたで『NYスタテンアイランド物語』を描写することではなく、このユニークな忘れ去られた場所とそこに住む人々を比喩的に定義することだった。その描写はユーモア、誇張されたドラマ、典型的な登場人物、クライム・ノワールの要素を用いて増幅されたものであり、人生の意義と自己をいささか見当違いに捜し求める3人の男たちの絶望的ともいえる苦境を不条理に描こうとしている。この世界で自己と意義を必死に捜し求める私自身がしばしばメロドラマ的で、ユーモラスで犯罪的でかつ、とてもばかげているのと同じように。
ジェームズ・デモナコ
ジェームズ・デモナコ監督
『NYスタテンアイランド物語』
2008 WHY NOT PRODUCTIONS - EUROPACORP
監督:ジェームズ・デモナコ
出演:イーサン・ホーク、ヴィンセント・ドノフリオ、シーモア・カッセル
[解説]
NY市南西部に位置するスタテンアイランドを舞台に、ギャングの親分、小心で平凡な青年、そして口のきけない精肉店のオヤジが織り成す、ちょっぴり残酷で皮肉な、でもユーモラスでセンスあふれる、心に響く3つの物語。
[あらすじ]
ブルーカラーのサリー・ヘヴァーソンが、これから生まれてくる子供の将来を考え、チンピラギャングのボス、パーミー・タルゾの金庫を襲う決意を固める。賞金を狙う3人の男たちの人生が悲劇的に交差するなかで、記憶に残る事業を望むタルゾは、スタテンアイランドの森を救うキャンペーンを展開する。一方、聾唖の総菜屋の店員ジャスパー・サビアーノは、ギャングのボスによるいかがわしい行動の犠牲者の遺体処理を行う。